繊細な鋳肌と重厚な味わいのある着色が特徴の南部鉄器は、みちのくの小京都[盛岡」の歴史と自然が長い時間をかけて作り上げた、盛岡が誇る伝統工芸品です。その歴史は古く、
約400年前より、文化に造詣の深い代々の南部藩主に保護育成され、今日まで受け継がれてきました。
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南部鉄器のはじめ
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南部鉄器の「南部」の名称は約400年前、南部信直公が盛岡に城を構え、藩主としてこの地を持っていたことに始まります。
盛岡には古くから砂鉄、岩鉄などの良質な鉄資源や、川砂、粘土、漆、木炭などの原料がすべて地元で産出され、鋳物産業にはもってこいの立地条件にあり、そのころから鉄器が製造されてきました。
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南部のお殿様に守られて
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南部藩歴代の藩主はいずれも産業・文化に関心が強く、甲州(今の山梨)から鈴木縫殿を御鋳物師をして招き、さらに京都の釜師 小泉五郎七を御釜師として呼び寄せ、大砲、釣鐘、茶の湯釜の製造にあたらせました。
中でも、8代藩主利雄公は茶道に秀でており、そばに仕える者ばかりか、城下の武士・町人にまで茶道を広めていきました。
御釜師が作った湯釜ば幕府・各藩への贈答品として使われ「南部釜」は大いに名声を得ていました。
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南部鉄瓶のデビュー
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茶道が盛んになると藩内ではさまざまな流派に分かれるようになり、幕府の役人や各藩の使者をもてなす茶会で不都合がでるようになりました。
そこで8代藩主利雄公藩内の茶道を統一し、さらには自らも釜を作りたいと3代目御釜師 小泉仁左衛門を師匠にあおぎました。
このころ、新しい煎茶法がはやりだし、3代目仁左衛門が「湯釜から鉄瓶はどうだろう」と、寸法を縮めた茶釜に口とツルをつけ今の南部鉄瓶を考案しました。
鉄瓶は茶の湯釜のかわりに広く手軽に使われるようになり、湯沸かしの日用品として広くいきわたりました。
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南部鉄瓶の人気
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大正天皇がまだ皇太子だった明治41年の秋、東北地方に来られ、各県の珍しい物をご覧いただこうと計画されました。
岩手県では、南部藩御釜師「8代目 仁左衛門」が鉄瓶や茶の湯釜を作り、その順序をお目にかけました。
その様子が、東京をはじめ全国の新聞に掲載れたのをきっかけに、南部鉄瓶、湯釜の人気はうなぎのぼりになり、伝統的な技術から生まれた鉄瓶、湯釜は大発展し、鉄瓶といえば南部鉄瓶といわれるほどになりました。
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南部鉄瓶と戦争
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南部鉄瓶の長い歴史の中で、戦争は鉄器業界に大きな打撃を与えました。
鉄は戦争で使う武器製造のため、鉄瓶づくりには使えず、銅像・擬宝珠・寺の鐘までも武器製造のため回収されて行きました。
また、鉄瓶職人も武器を作る仕事をしなければならず、技術を保存するために極少数だけ作ることを許可されました。
戦後ようやく自由に製造できるようになり、南部鉄瓶の名前とともに現在に残すことができました。
昭和50年には「伝統工芸産業振興法」という法律ができ、南部鉄瓶は国の指定を受けて伝統工芸品として命を守っています。
これも、鉄瓶づくりに情熱をかたむける人々の努力のたまものです。
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